現在、国立新美術館で開催中の「遠距離現在 Universal / Remote」展(6/3まで。6/29より広島市現代美術館に巡回予定)。
現代美術を通してポストパンデミック社会の在り方を観測する展覧会であるが、その多くはパンデミック以前に制作された作品で構成されている。本稿では、国や年代を超えて組み立てられた、プログラミングにおけるコーディングのように複雑で挑戦的なキュレーションを、各作品や会場構成から読み解いていく。
展覧会は井田大介の3作品で幕を開ける。
「火」は文明の発展を長い間支えてきた根源的・自然的なものであった一方で、現在では「発言がSNSで炎上する」という表現で用いられるなど、管理社会・情報化社会と切り離すことが不可能になった。ヒンドゥー教において「火は最高神シヴァの持つ破壊と創造の力の顕現であり、超越的な光明と智恵とを表していた」[i]というように、かつて聖なる存在とも捉えられていた火は、現代においてはネガティブな表現と結びつけられるようになっていたのだ。
そこで、作家は改めて「火」の持つ創造と破壊のサイクルに注目し、「飛行」「上昇」「落下」を表す3部作を制作した。その作品は、複雑さを増し偶発的な連鎖反応に振り回される今日の世界においても、根底に大きな規則性が存在することを示唆するようだ。
《文化動物》に代表されるように、一貫して「文字」をテーマにした作品を制作してきた徐冰が出展するのは、ネット上に公開された11,000時間分の監視カメラの映像をもとに構成された、作家初の映像作品《Dragonfly Eyes》。「中国政府に問題がないとは言いませんが、この作品は新しい監視社会の到来を告げるものとしてつくっているのです」[ii]と語るように、作品の主題は中国の抑圧的な監視社会ではないものの、制作背景を明らかにするために当時の社会状況を見てみよう。
10年ほど前まで、中国の監視カメラのほとんどは政府が設置したもので、その映像が一般に公開されることは非常に稀であった。転機となったのは、2013年に導入したSharp Eyesというプロジェクトで、監視カメラの映像を一般に公開し、スマートフォンやテレビといった身近なデバイスを使用し相互に監視し合うことで、「安全な都市」の実現を目指すもの(“表向き”の口実かはさておき)である。山東省の農村部から始まったプロジェクトは、都市部へも急速な広がりを見せ、現在は中国全土に2億を超える監視カメラが設置されるなど、まさに「とんぼの眼(dragonfly eyes)」となったわけだ。
こうして入手可能となった脈絡のない映像は、作家によって繋ぎ合わせられ、アイデンティティの揺らぎを見せる若い女性と、彼女に片想いする男のラブストーリーが展開されていく。
一見したところでは過去の作品との繋がりは薄いようにも感じるが、人類の文明の混沌やねじれ(徐は「文化のタトゥー」と呼ぶ)を明らかにするという彼の創作の原点は、“現実の断片”が“虚構”を構成するという矛盾をはらんだ現代社会の構造を明らかにする本作の手法にも受け継がれているのだ。時々の社会が生み出すメディアを利用して作品を制作してきた徐が目指す新時代のメディアとは何か、これからも注目していきたい。
トレヴァー・パグレン〈Landing Sites〉シリーズと〈The Undersea Cables〉シリーズでは、あらゆる繋がりが拡張されることによって非物質化された(かのように見える)世界を支える、物質的な存在としてのケーブルに注目した。しかし、写真に写るのはただのケーブルではなく、海底に敷設された盗聴用ケーブルである。
そして〈Hallucination〉シリーズでは、画像生成の過程で「生成器」と「識別器」が作った画像、つまりAIが他のAIのために作った画像を人間が見ることになる。
現在、権力にとって望ましいイメージを生成するために、世界中のあらゆる場所で人間や個人の介入を排除したシステムが構築されている。不可視なプロセスやインフラを可視化する一連の作品群を通して、私たちは、個人と権力の不安定な均衡が可能にした、過度な技術化・情報化社会における生き方を自問するべきではないだろうか。
地主麻衣子《遠いデュエット》は、彼女が「心の恋人」とするロベルト・ボラーニョの足跡をたどるドキュメンタリーのようでもあるが、行く先々で偶然出会った人々との対話や彼女自身の「穴」にまつわる物語の朗読を通して、「遠い存在」のボラーニョへメッセージを伝える物語でもある。
4章の「穴」では、ボラーニョの短編小説『野生の探偵たち』に登場する、「悪魔の口」と恐れられている深い穴へ落ちた子供のエピソードをめぐって、ガリシア出身の女性と地主との間で率直な会話が交わされる。地主が「悪魔の口」のエピソードに感じた日本社会のメタファーについて、女性は「(スペイン人の立場からすると)そんな風に一般化できるのか分からない」と返すなど、今日の流動化・希薄化する国境の中でも確かに存在する文化的境界を感じ取ることができるだろう。
日本では初の紹介となったティナ・エングホフ。
デンマークで孤独死した人々の部屋を撮影し、生年月日・発見された場所・日付を記した〈Possible Relatives〉シリーズは、介護・引きこもりが大きな社会問題として取り上げられる日本社会との接続も感じさせる。
北欧は充実した社会保障制度で知られ、多くの人々が自立した生活を送る。一方で、「繋がりの遠さ」が存在の欠落を導くと捉えた場合、一見ポジティブな「自立」は意外にも「孤独」と隣り合わせなのかもしれない。
ヒト・シュタイエル、ジョルジ・ガゴ・ガゴシツェ、ミロス・トラキロヴィチの共同制作作品《Mission Accomplished: Belanciege》は、ベルリンの壁崩壊後の政治的ポピュリズムと、ハイブランドによるローブランドの私有化・搾取(バレンシアガ方式)を重ねて読み解いたレクチャー・パフォーマンスを再構成したインスタレーションである。
イメージの流通に潜む政治性、そして権力の巨大化を支える資本主義の矛盾した構造に意図せず組み込まれる消費者の姿が、戯画的に表現されている。
続いて紹介されるのは、日常において目に留まった風景を写真に納め、ドローイングを挟み短時間で油絵を描き上げる木浦奈津子。
《Mission Accomplished: Belanciege》の鮮やかな壁から一転し、白く広々とした壁に点々と作品が展示されることで、心理的な深層世界へと誘うような空間が構築されている。
そこに描かれる抽象でも具象でもない風景は、匿名性を帯びた絵画に対して、鑑賞者が無理矢理にでもパーソナライズされた“情”景を見出そうとする仕掛けが施されており、論理的な視覚体験よりも意識的な心理描写が絵画として立ち現れているようだ。
一方で、情報の氾濫する現代において個人の存在が希薄化する中、個人的な風景や歴史が、時間の経過とともに淡白で“公的な物語”へと移り変わっていく様を風刺していると捉えることも可能ではないだろうか。
エヴァン・ロス《Since You Were Born》は2016年に彼の次女が生まれた日から4カ月間にコンピューターのキャッシュに蓄積された画像データで空間を埋め尽くしたインスタレーションである。
キャッシュに蓄積されるデータは訪れたサイトから一時的に保存されるものであり、公開されることを想定したものではない。しかし、データは彼自身の生活の痕跡そのものであり、口述などとは異なったストーリーテリングの可能性を示してくれている。特にコロナ禍において、我々は活動の多くをインターネットに依存していたが、そうした環境における“個人”はどのようにしてアーカイヴされるのか。情報化社会に生きる我々の実態を映し出すとともに、コロナ禍の3年間の生活を見つめ直すきっかけになるだろう。
作品とは別に、キャッシュに保存されていたウェブサイトの情報が羅列されたブックも出版されているので、興味のある方は手に取ってみて欲しい。
チャ・ジェミン《Chroma-key and Labyrinth》は現代における労働のあり方への省察を促す。
芸術家は「手」を動かし作品を作り、配線作業者も「手」を使い仕事を遂行する。しかし、当たり前のように情報化社会の恩恵を享受している我々は、その基盤を作り出す過程としての「労働」に思いを巡らせることは少ない。無意識に、高貴な労働か否かという視点で捉えていたわけだ。
作家によって、クロマキーの技術に重ね合わせるようにクローズアップされた配線作業者たちの手仕事は、匿名化された代替可能な存在としての“個人”を再考するきっかけを与えてくれるだろう。
往々にしてキュレーターや芸術家の眼差しが未来へ注がれる中、本展についてキュレーターの尹志慧(国立新美術館 特定研究員)は「ほんの少し前のこの3年間が私たちにとってどのような時期だったのか、社会がいかにして今の姿に至ったのか、今後の私たちはどこに向かうべきかを、現代美術を通して考える展覧会である」[iii]と語る。
正直、展覧会を通じて「今後の私たちはどこへ向かうべきか」という問いへの答えを導き出すことは困難かもしれない。しかし、コロナ以前に制作された作品と同時代の作品とを組み合わせたキュレーションは、過去の問いに答えを見出せない現代社会の複雑さを浮き彫りにしたという意味で、非常に意義のあるものではないだろうか。

展覧会タイトルの「遠距離現在 Universal / Remote」。
のちに近距離な「過去」となる事象は、多様な広がりを持ち高度な技術に支えられた今日の世界の中でさえも、遠距離な「現在」として私たちの前に存在することを示唆しているのだろう。
そして、これらの作品と向き合った時、未だアナログな感性から抜け出すことのできない現代人の限界も感じるのだ。(土田祥ノ介 / TSUCHIDA Shonosuke)
※画像は全て展示風景より、筆者撮影
[i] 久野昭「自然哲学と火」『火の起源と神話 -日中韓のニューアート-』1996年、埼玉県立近代美術館、149頁
[ii] https://bijutsutecho.com/magazine/interview/28756 (2024年5月17日最終閲覧)
[iii] 尹志慧「遠距離現在 Universal / Remote」『遠距離現在 Universal / Remote』2023年、国立新美術館、6頁